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​🔶牧師室から🔶

 

2月

昨年、12月のクリスマスは4年ぶりに食事を共にしてキリストの誕生を祝いました。改めて食事を共にする幸いをかみしめました。イエス・キリストは当時の貸しい人やさまざまな障害を持つ身であるため、当時の社会では、汚れた存在として社会の片隅に追いやられ差別されている人々を招いてよく食事をされました。勿論、弟子たちも同伴で、しばしば楽しい休息の時を過ごされました。その姿を見て祭司長、長老、律法学者たちは、律法を破り、神を冒流したと非難し、敵意から逃げ道の無い処とことん追い詰めてゆきました。それが+字架の死であったことを4つの福音書が記しています。今年もキリストの受難の道のりを辿る受難節を迎えます。(是非、聖書をお読みください)

受難節(レント)を意義深く
今年の教会の暦では2月14日が初日で、3月30日まで受難節です。
受難節(レント)は復活祭(イースター)前の46日間の期間のことです。
日本基教団の教会歴では「四旬節」と呼ばれます。日曜日(復活を記念する喜びの日)を除くと、この期間が40日になるからです。四旬節の「40」という数字は、聖書の中では受難、試練を表す数字、或いは特別な準備期間を示す数字でもありました。例えば、ノアの洪水物語では40日40夜雨が降り続き、モーセは40日間シナイ山にとどまり、イスラエルの民は約束の地に入るまで40年間を荒野をさまよい、ヨナはニネベの人々に40日以内に改心しなければ街が滅ぼされると予言しまし
た。イエス・キリストは公生涯の前に40日の荒野での試みを乗り越え、悪への誘惑に打ち勝つ道を示してくださいました。
代々の教会は、深い悔い改めと断食と祈りの時として守り、イースターに備えました。
洗礼によって既に与えられている信仰を更新する時として、また新たに洗礼を志願する者の準備期間として、そして教会から離れた人が、再び教会の交わりへと回復される時として、この40日間は大切にされてきました。
<灰の水曜日>受難節の開始を告げるのが「灰の水曜日」です。なぜ灰の日と呼ばれるのかと言えば、それは深い悔い改めや悲しみを表す聖書的な象徴として「灰」が出てくるからです。灰を用いることは、様々な宗教伝承に古くから見られる習慣です。
この日に私たちは、自分が神によって土の塵から形づくられ、いつの日かこの塵に変えることを想起するのです。また、そして、受難節の初日である灰の水曜日を記念し、灰を額に付け、その意味を心に刻みます。

十字架の道をたどって
受難節の最後の週を「受難週」または「聖週」と呼ばれています。
<棕梠の主日・枝の祝日>最古の福音書であるマルコによる福音書11章1~10節による
とキリストがエルサレムに迎えられた記事があります。キリストはロバにのりその道に、野原から葉のついた枝(ナツメヤシの葉)を切って道に敷いたことから梠の日・枝の日とされました。
<洗足木曜日> キリストが最後の晩餐の前に弟子の足を洗われ、あなたがたもするようにと模範を示されたことを覚える日です。
礼拝や祈り会では必ず、新約聖書のヨハネによる福音書13章1~20節を読します。
人数が揃う教会では数名の朗読者が分担して読み味わうこともできたらいいですね。
教会によっては「洗足木曜日 (夕)礼拝」で賛美、小説教、聖餐の時を持ち、集会の中で、たらいと水を用意して互いの足を洗い合う教会もあります。
<受難日 (十字架の聖金曜日)>私たちのために主イエス・キリストは裏切られ、罪人の手に渡され十字架で死んでくださいました。そのことを記念して金曜夕礼拝を実施しているところもあります。以前の教会ではしていましたが、当教会ではできておりません。
礼拝ではルカによる福音書 22章47節から23章56節までを7回に分けて朗読するたびに、7本のローソクを一本ずつ消す。最後に「キリストの灯火」(大ローソク)を消すか、持ち去る。その後、賛美歌を歌っている間に『キリストの灯火」を聖餐卓に戻す)それは深まりゆくこの日の暗さを表します。
日曜日を除く 40日間、神のみ言葉に親しみ、これを味わいつつ、絶えず祈ることができますように。
もう一言、蛇足ですが、正午から3時の間に聖書読と祈りの時をもっています。そして、人様にいう事ではありませんが、せめてもの思いで、受難日の昼食はいたしません。また、今年は、教会でガザ地区被災者救援募金や能登半島地震緊急救援募金に協力しましたが、更に支援の思いを強く持ちながら、ささげる幸いと感謝をもかみしめてと・・・・。

6月

先日の5月28日に、私たちの教会もペンテコステ礼拝を守りました。ペンテコステとは、クリスマス・イースターと並ぶ教会の大切な記念日です。五旬祭(過越祭から50日目)の日に、弟子たちに聖霊が降り、それまで、次は自分たちが殺されるのではないかと怯えていた第子たちが一転、大胆にキリストを証しはじめ、それを聴いた人々に回心が起きたという出来事が起こりました。ペンテコステとはそれまで聞くだけだった弟子たちが、自ら外へ出かけて語る者に変えられ、その結果、信じる者が起こされ、教会が生まれた記念の日です。
使徒言行録は次のように伝えています。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2:2~3)新約聖書の原点のギリシャ語では「風」と「霊」という言葉は共に「吹く」という言葉を話源としており、霊は風として表現されています。また、旧約聖書の原点のヘブライ語では「霊」は「息」と同じ言葉であり、神の霊は神の息吹として現わされています。風は目で見ることができませんが、木の葉の揺れや音によってその存在を感じることができます。また、私たちの息も見えませんが確かに存在し、命を生かしています。そのように聖霊・神様の息吹も見えないけれども、確かに弟子たちの上に降ったことを伝えています。ただこの時、何の準備もないまま、彼らは第子たちが霊に導かれるままに語り始めるのです。語る内容は『あなた方が殺したイエスこそ神の子であり、神によって復活された」という驚くべき内容でした。
当時、菓子たちを取りまく状況は、2ヶ月前にイエスを捕えて処刑した時と同じです
主イエスを処刑した大祭司や律法学者をはじめ多くの人々は子たちをあざ笑い、疑いの目で見ていました。そのような状況の中、それでも弟子たちは語りました。いや語らざるを得ない、そのような準備ができていようとできていまいと、神の霊が語らせる。それがペンテコステに起こった出来事でした。
私共も毎年、ペンテコステ礼拝を守るたびに、教会の源流はここにあり、同じ聖霊の力によって導かれ、存続していることを改めて受け取っています。
ペンテコステ礼拝の一週間後の6月4日は 三位一体主日礼拝でした、聖霊降臨によって、父なる神と子なる神(イエス・キリスト) とその働きである聖霊が一つとなってわたしたちに臨んでくださるのです。ですから 私たちは、天地創造の神を三位一体の神とも呼び、賛美し礼拝します。キリストを通して私たちの間に来てくださり、聖霊によって、私たちに新しく生きる力、生きなおす力を呼び起こしてくださることを信じています。
コロナ禍が「5類」に移行し、教会の歩みも少しづつ動き出しました。礼拝後の交わりの会、愛餐会(第3 日曜のみ)、聖書通読の会などを再開しました。どうぞ、お気軽にお越しください。
聖霊のひとりの神、人知を遥かに超える神様がお一人お一人を捕えてくださるようにお祈りいたします。

 

4月

 先日、テレビで、和歌山県田辺町の梅の木の「母木」のことが報道されているのを見ました。田辺町を日本一の梅の産地にしたのは一本の「母木」おかげだということでした。母木のそばには「記念」を建てて、町全体がこの「母木」に感謝し、大切に見守り管理しているとのことでした。確かに老木です。枝の何本かがつっかえ棒?に支えられながらも今年も花を咲かせ、梅の実もいくつか実らせたということでした。この報道は心に沁みました。

そして、今や、各地の桜が満開です。梅と桜は共に美しい物とよい物の並んでいるたとえとされています。

また昔から「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」という有名な言葉もあるほどです。満開の桜もやがては散り、葉桜、紅葉、落ち葉となってまた次の満開の時まで一年を重ねていくのですね。

堺清水橋教会も2022 年度が終わり、新年度を迎えました。教会の暦では、現在は受難節です。私たちの救い主イエス・キリストが受難の道を歩まれ十字架の死を遂げられることを心に刻みながら歩む大切な時期を過ごしています。

しかし、神様はこのイエス・キリストを十字架の死から3日目によみがえらされたのです。そのことを記念して復活を祝うのがイースターです。

一年を振り返ってみますと反省することばかりです。確かにコロナの響もありました。久しく言われ続けている少子高輪化に拍車を掛けました。コロナ禍がようやく収束の気配を見せる中で、昨今はカルト「2 世」問題が話題になっています。多くの2世が苦しむ中、教会の姿勢や取り組みが問われています。

にもかかわらず、この間、礼拝のほかは様々な取り組みも集会も殆どできませんでした。コロナ以前のような活気?溢れる集いなどできそうにもありませんが、もう一度、心新たに再出発をしたいと、地域の方々に改めて教会の存在と共にイエス・キリストのメッセージを伝えていければと祈り願っています。

 イースターは、復活のキリストを記念すると共に、私たちの復活の時なのです。イエス・キリストは十字架の死を前におっしゃいました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」

(ルカによる福音書9章 23節)自分の十字架・・・それは私たちの人生のそのものです。泣く時、喫く時、失う時・・・(コヘレトの言葉3章から)です。しかし、イエス・キリストの受難と死の後には必ず復活があるのです。教会ではこのキリストを甦らされた命の創り主である神を賛美し礼拝しています。そして、どのような時も神が私たちと共にいて準いてくださることを信じ、その恵みと感謝を分かち合っています。

今年は4月9日にイースター礼拝を行ないます。11時から礼拝を行なっています。よろしければ是非お越しください。皆様お一人おひとりの上に神様の祝福をお祈りいたします。

 

 

2023年1月​ 新年あけましておめでとうございます。

2023年が皆様にとって、主の恵みに満ちた一年でありますようお祈り申し上げます。

 

今年の1月17日で、あの阪神・淡路大地震から28年が経ちました。現在の神戸の町々は驚くほど見事に復興しています。しかし、今も尚続く、愛する家族を失われた方、心と体に傷を負い、今も苦しみと悲しみの中におられる方々のことを映像を通して知らされました。これからもあの日のことを忘れずに、と重く受け止めた次第です。
28年前,私は奈良県の教会で牧師をしており、あの日は、それまで経験したことのない大きな揺れで目が覚めました。その後、多くの方は救援のボランティアに行かれ、大阪教区からも様々なボランティアの要請がありました。しかし、私は、結局一度も被
災地には行きませんでした。いや,行けなかったのです。益田であれだけ多くの方にお世話になったのに、なんて身勝手で冷たい人間なんだろう・・と思い悩み、本当に情けなかったです。その後、その行けなかった要因が解りました。今から40年前の1983年
(阪神淡路大地震から12年前)、私たち家族は、島根県。益田教会時代に大水書に選ったことが大きな
トラウマになっていたことに気づきました。益田教会は古い平屋で、ほぼ全壊状態。信徒のお宅などをお借りして住居を転々としながら復旧に向けて、そして会堂建築へと、殆ど動き詰めの日々でした。当時、幼稚園児だった2人の子どもを一か月近く、牧師仲間にあずけて復旧作業(救援物資の整理や食事係など)に明け暮れました。あの一年間の出来事と経験が、あの阪神淡路大地震の時に実に重く苦しくよみがえってきたのでした。あんなに多くの方の救援・献金を頂戴し、会堂建築まで、感謝しかないと思っていた日々だったのに・・-されど、実母の葬儀(石橋教会)の一週間後に彼災したこと、復旧に向けての一年間の様々な思い、母を失った悲しみや校
災者としての疲れが心の奥底に残ったままだったことをしみじみと実感させられまし
た。それで、28年前は被災地には一歩も行かず、せめてとの思いで、大阪・東梅田教会での救援物資の整理の手伝いだけで終わってしまいました。(苦笑)
私たちは、それぞれに、様々なトラウマを抱えていると思います。そのことに気づき、受けとめていくことは決して容易なことではありませんが、人との関わりの中で、共に生き、お互いの優しさ、思いやり、共感的配慮が 々に癒しと回復への道に繋がるのではないでしょうか。
私たち、堺清水橋教会は、力不足でそのような取り組みはできてはおりませんが、不曜日の集いでそのような”こころの問題”についても互いに理解し合い、学び合うことができればと願っています。
この3年間は新型コロナ感染症で苦しみましたが、礼拝だけはしっか予防対策をしながら守り続けました。この間、ご家庭や病院への訪問もお見舞いもできないまま、4名の教会員を天に送り、寂しくなりました。礼拝後の交わりの会や学びの会もできませんでした。もう少しの辛抱かも知れませんが、一日も早いコロナの収束を祈るばかりです。 そして、今年の標語「生かされ、生かし合う」温かい交わりが高く、深く、そして広がりますように、そのような意味で、教会が整えらますように、祈りつつ努力してゆきたいと思っています。

 

12月

 あの事件からもうすぐ一年になろうとしています。大阪は梅田北新地の心のクリニック放火事件から・・・。

26名の尊い命が犠牲になりました。そのうちの一人が犯人で、「死ぬ時ぐらいは目立ちたかった・・・・」どか。

クリニックの院長先生を始め、25名の方々の最後はどんなに苦しく無念であったことでしょう。そして、ご遺族の悲しみはこれからも続きます。そこには愛する者を失った喪失感と悲しみに加えて「あんなところに通院してるからだ」というような冷淡極まりない言葉に一体、どれほどの苦しみと悲しみを背負わせていることでしょうか。これから先もこの苦しみ悲しみは続くことでしょう。改めて人間の罪の深さを痛感させられています。

 聖書に「万事が益となる」(ローマの信徒への手紙8章28節)という聖句がありますが、ご遺族にとっては、今はとても受け入れがたいことだと思います。「終わり良ければすべて良し」という格言の逆なのですから。しかし「万事は益に変えられる」という言葉は真実です。亡くなられた院長の妹さんが心理カウンセラーを目指して学びつつ重荷と苦しみを抱える方の相談を始められていると聞きました。確かに地上での院長のお働きは絶たれてしまいましたが、これまでのお働きが多くの方の今後の歩みを導き、大きな励ましと生きる力が芽生え。そこからまた新たに人と人との繋がりが、生まれ支え合い生かし合うことでしょう。ここにいのちを輝かせる光を見ることができます。

 今年もクリスマスを迎えます。神の子イエス・キリストが、私たちの苦しみも悲しみも共に担ってくださる方として、お生まれになるのです。そして地上での最後は、私たちのすべての苦しみ、悲しみ破れ、罪を背負って十字架の死を遂げられるのです。しかし、神様は御子を十字架の死から復活させられました。それは、神様が、御子イエス・キリストによって、それぞれの人生が「万事が益となる」ように導き、執り成してくださるのです。そのことを感謝しつつ、クリスマスの希望と喜びが一人でも多くの方に注がれますようにお祈りいたします。

 

11月

 紅葉の美しい頃となりました。コロナ禍も3年目の秋、第8波が懸念される中にも多くの方が各地の紅葉を楽しまれていることと思います。

 私の一人の姉がブラジルに永住していますが、十数年前に最後の帰国した時に、日本の季節の移り変わりを懐かしんでおりました。ブラジルには、四季がなく年中、ブラウス一枚で過ごしているようです。日本の四季は、美しい自然の移り変わりが、私たちの心を和ませ、この美しい自然に育まれていることを実感する今日この頃です。それはまた、同時に、この世界が神の天地創造の業によって造られ、私たち一人一人の命も神が与え、神の愛によって生かされていることを深く思わされています。先般、工藤信大先生の「人生の秋を生きる」(カルディア-ブックスいのちのことば社)を読みました。私は、すでに後期高齢者となり、秋どころか冬も冬、終活に入りつつも、なぜか、まだ教会の働きにおわれて?います。この「おわれて」は「追われて」でもあり、「負われて」でもあります。この時期、教会は秋の集会が続き、アドヴェント・クリスマスの準備等で、大変忙しい時期です。その意味で次から次へと仕事に追われます。しかし老骨に鞭打ってのこと、若いエネルギッシュな教会員に支えられ、負われてなんとか歩みを続けています。

 先日、当教会を会場に「堺ピースメモリークラブ」の集会が行われました。そこで共に「平和を願い、新たな出会いと課題が与えられました。今後も様々な形で “共に生きる歩み”が与えられますようにと願っています。

9月

 9月に入りました。先月も暑い8月でした。毎年この時期は、二学期を迎える子どもたちのことで胸を痛めます。学校に行くのが苦痛で、心身ともに体調を崩す子ども達が少なからずおり、時には自殺者もありました。今やテレビの報道と言えば、毎日がコロナ禍の情報、ウクライナ侵攻での爆撃の映像、そして、旧・統一教会と政治家との癒着問題ばかりです。その様なニュースの陰に隠れてしまっているのでしょうか。二学期に入った子どもたちが、元気で健やかに過ごせますようにと願って止みません。

 さて、先日、8月28日の礼拝で、私は「新しく生きる」と題してメッセージをいたしました。聖書の個所は〈新約聖書エフェソの信徒への手紙4章17~32節です。その内容は「古い生き方を捨てて、新しい生き方を追い求めましょう」というものでした。それは、私たち人間の知恵や経験、努力で得られるものではなく、キリストからの恵みによって与えられるものなのです。キリストは、キリストを拒むものによって殺されました。しかし、神様はこのキリストを死からよみがえらされました。

私たちがこのキリストを信じる信仰によって、キリストと共に古い自分に死んで、キリストの復活の命によって、生きることが「新しい生き方」であると、聖書は語っています。

 エフェソ4章25節以下には、新しい生き方の具体的な勧めが記されています。ぜひこの箇所をお読みください。ここでは25節に注目したいと思います。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」このところで、偽りを捨てることが、古い生き方を捨てるということにつながります。偽り、嘘、偽証、詐欺がなんと多いことでしょう。それらがどれほど人から奪い取り苦しめているでしょうか。29,30節には次の言葉が続きます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい・・・互いに親切にし、あわれみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」私もまだまだ不十分ですが、この御言葉に学びつつ、このように生きることができますようにと祈りながら、歩んでまいります。

8月 暑中お見舞い申し上げます。

 コロナ禍と猛暑で大変な時を過ごしていますが、いかがお過ごしでしょうか?皆様の健康が支えられ、元気でお過ごしくださるように願っています。大阪府はコロナ禍予防対策として高齢者の不要不急の外出自粛の要請が出ています。その様な中で私どもの教会もなかなか計画通りにはいきませんが、「礼拝」だけは休むことなく大切に守っています。

 礼拝堂は2階ですが、礼拝後部の和室と1階ホールに​映像による礼拝ができるようになりました。和室では小さな子どもたちと保護者の方、そして1階ホールでは階段を上がるのが難しい方も共に礼拝ができますことを感謝しています。

 さて、いよいよ8月です。8月は多くの場所で平和への祈りがささげられます。77年前の8月に長く続いた戦争が終わりました。広島と長崎に原子爆弾が落とされました。今も多くの方々がその時の傷を負って苦しんでいます、あの戦争を生きぬいてこられた高齢の皆さんは、現在毎日のようにロシアによるウクライナの軍事侵攻の映像をどんな気持ちで見ておられるのでしょうか。一日も早くあの悲惨な戦争が終わることを祈るばかりです。

​ 教会では8月7日に平和礼拝を守り、その歴史を心に刻みつつ、子の礼拝を平和の祈りを求める礼拝として守りました。また今年は丁度、沖縄本土復帰50数年(1972年)を記念して沖縄の歴史を学びました。沖縄のガンジーと呼ばれた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんの言われた言葉を思い出します。「平和の敵は無関心である。戦争の最大の友も無関心である。」マザーテレサさんも「愛の反対は憎しみではなく、無関心である。」と言われました。

 教会としての歩みは遅々として進みませんが、精いっぱい神様を賛美、礼拝し、同時に様々な課題に関心をもって歩んでゆきたいと願っています。そして、この8月は平和の祈りの時としたいと思います。私たちの救い主、イエスキリストは、「平和を実現するひと幸いである。この人はたちは神の子とよばれる。」と言われました。どうぞ、私たちがそのさいわいな者として導かれますようお祈りいたします。                 

                    ~ 神には栄光 地には平和 ~

​6月 去る6月19日の礼拝「聖霊が生み出したもの」と題してお話しました。

​引用した聖書は、新約聖書の使徒言行録(または使徒行伝、使徒の働き)4章13節~31節でした。この箇所には、使徒となったペトロとヨハネが生まれつき足の不自由な人をイエスの名によって立ち上がらせ、癒された人が歩きだしたというできごとが記されています。

この人は、これまで人の世話になるだけ、一歩も歩けない、ゆえに、律法で汚れた存在とされ、神殿にも入れず門のそばで物乞いをしていました。その何重もの苦しみから解放されたのです。ここに聖霊が生み出したもの、それは「生かされ生かしあう」ことが実現しました。癒された人は初めて神殿の境内に入り、喜びを隠しきれず歩き回って神を賛美しました。ペトロもヨハネも聖霊の力を信じ「イエスの名によって」自分たちが神に用いられたことを感謝し、様々な妨害や牢獄されても、大胆に主イエスの十字架と復活を語り続けました。

 

私は、ペトロ、ヨハネそして癒された人、この3人が立場を超えて神に生かされ、生かしあう、そのような出会いと関わりを与えられたことに、深い感動を覚えました。

堺清水橋教会の今年度の年間標語「生かされ生かしあう」という標語のもとに歩んでいます。

​まだまだコロナ禍が続き、交わりの会や学びの時はできていませんが、「共に生かされ生かしあう」そのような交わりと取り組みができますようにと願っています。

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