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2016/9/11「生きた石となって」

聖書:ペテロの手紙 一 2章1~10節

9月の第1主日は、多くの教会が、「振起日礼拝」として守っています。文字通り、心身と共に「信仰」を、もう一度「振るい起こしましょう」ということでしょうか。まだまだ残暑厳しい折、とてもそのような気持ちにはならないかも知れませんが・・・・。

 本日は、ペテロの手紙です。この書簡は使徒ペテロの名前を使って

後の弟子たち(教会の指導者)が執筆した書簡です。この手紙の背景には、ローマ帝国の支配と迫害があります。その苦難のただ中で新しいイスラエルとしての教会は、イエス・キリストによって告げ知らされた神の国の御支配を信じ、主の言葉に従う群れとして共に生きるようにと人々を励ましています。「あなた方は主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがたも生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(3~5節) また9節以下には、「あなたがたは、選ばれた民、・・聖なる国民、神のものとなった民とされたのは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招きいれて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」と語ります。ここに教会の使命と私たちのなすべき奉仕の務めがあります。この使命と務めに生きる第一歩として、私たちが常に心掛けなければならないことは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じり気のない霊の乳を慕い求める」(1~2節)ことです。

私たちは自分を守り、自分の行いや言動を正当化するためには常に誰かを批判し、攻撃の的にしています、しかし、そのような弱い存在だからこそ、繰り返し、繰り返し「偽り、ねたみ、悪口・・・それらを捨て去り、生きた石として神のものとされた民として用いられるように」と招き、勧め励ましている言葉だと思います。振起日にあたり、心を新たにされて、再び、初めの一歩から歩み出したいと願います。

 

2016/8/26「時をよく用いなさい」エフェソ5:11~20

エフェソ書はパウロ後の使徒たちが、礼拝の中で朗読されることによって会衆の心を動かし、キリスト者としてふさわしい実践へと勧める役割を果たしている。読者に向かって、「古い生き方から新しい生き方へ、即ち、以前は闇であったが、今はキリストによって光の子とされている。だから、光の子らしく闇の業を捨て去り、霊に満たされて詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主を賛美し神に感謝しなさい」と勧めている。まさに礼拝への招きである。改めて、礼拝を守ることへの恵みを覚え、今の時を大切にしつつ歩みたい。

 

 

2016/7/24ルカ12:32~34 「天に富みを積みなさい」 

今月の「信徒の友」(信仰生活を豊かにするキリスト教雑誌)は「無牧(師)―教会・信徒が育つときー」という特集で、教団内の教会・伝道所に牧師がいない割合が増え続けていることが記載されています。無牧の教会は代務や兼務の牧師が他の教会から通っていますが、多くが信徒の主体的な働きによって支えられています。岡山県のある教会は60年間無牧で、その間多くの方が天に召され、今や3人の信徒の方が、同じ地区の教会の支援を受け希望を捨てずに歩んでおられます。改めて教会は信徒の方々によって支えられていることを実感し、大きな励ましを与えられました。本日の聖書の個所は「思い煩うな」のメッセージに続けて「小さな群れよ、恐れるな」と語ります。ルカはそのあとに「自分の持ち物を売り払って施しなさい。尽きることのない富を天に積みなさい.・・富のあるところにあなた方の心もあるのだ」と続けます。私たちの教会も多くの信徒の方々の尊いささげものによって恵まれた礼拝が守り続けられてきました。今後も、聖霊の助けにより、共にみ言葉に従い、主の体なる教会に仕え、そして互いに仕え合うことができますように。献身の思いを新たにされたいと願います。

 

2016/7/17 「神は探しておられる」ルカ18:1~8

今日の譬話は「気を落とさず絶えず祈り続けなければならないことが勧められています。登場人物は2人。やもめがある人を訴えに裁判官のもとへ何度も。最初は無視していた裁判官は次第に顔を殴られるほどの勢いなので仕方なくやもめの訴えを利いてやろうというわけです。そして主は言われた「この裁判官の言いぐさを聞いたか。まして神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのことをほうっておかれることがあろうか」と。当時のローマ帝国とユダヤ地方の圧政に苦しめられ、生きる気力さえ失い絶望の中にいた民衆への励ましです。私たちも励まされます。「主よ、いつまでですか?でも、最後まで気を落とさず祈り続ける信仰を与えて下さい」と。

 

2016年2月7日(日) 降誕節第7主日礼拝

礼拝メッセージ 「5つのパンと2匹の魚」堺清水橋教会牧師 森田香代

聖書:ヨハネによる福音書6章1~15節

 

 私たちは、日々の暮らしの中で、絶えず”喜怒哀楽“の感情を表しながら歩んでいます。

その中で、一番「幸せだなー」と思うときはどんなときでしょうか? お腹がいっぱいになった時ではないでしょうか? 家族や親しい人との食事を共にした時は、誰にとりましても「至福の時」ではないでしょうか・・・・。

 聖書の中には、驚くほど多くの食事を共にする場面が記されています。主イエスも弟子たちや、当時の社会の中で,罪人と称されている人々とよく宴会で食事をされました。

 

本日は、よく御存じの「5千人の給食」の記事です。「5千人」とは男の人の数出、女、子どもは入っておりません。数に数えられない程の存在価値でありました。聖書の世界も当時の父権制社会というか、男性社会がそのまま映し出されています。女、子どもも含めば

1万人以上の人がいたのではないかと思います。どうしてこのようなことをされたのか、どうしてこんなことが起こったのか,わからないから「奇跡物語」なんですね。

実際はどのようば出来事だったのでしょうか。今日の私たちがこの奇跡をどのように読めばいいのでしょうか?

 

 このような僅かの食料で、驚くほど多くの人が食べて満腹し、さらに、12の籠にいっぱいのパン屑が残りました。このようなことが実際に起これば、世界の食料問題は一挙に解決してしまいますが、現実は、簡単ではありません。現在、豊かな国が食べきれないで捨てている膨大な食料と同じ量があれば、飢餓状態で苦しむ人々が必要としている食料がほぼ同じ量であると話されているのをお聞きし、胸を痛めています。

 

さっそく聖書の内容を観てまいりましょう。主イエスはガリラヤ湖の向こう岸の渡られた時多くの群集があとを追ってきました。主イエスが病人たちになさった多くのしるしを見たからです。イエスが山に登り、弟子たちとそこに座られました。ユダヤ人の祭りである『過越し祭』が近づいていたので、主イエスはもう一度、人々に彼らが信じているモーセを想起し、その恵みを追体験させようを考えられたのではないか、と思わされます。というのは,フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいのだろうか」と言われましたが、こういったのは、フィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのです。(6節)フィリポは、めいめいが少しずつ分けても200デナリ分でも足らない」と答えています。次にシモンの兄弟アンデレが「ここに大麦のパン5つと魚2匹とをもっている少年がいます、けれども、こんな大勢の人ででは、何の役にも立たないでしょう」と言っています。(9節) そこで主イエスは人々を座らせ、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられたのです。結局、ここではイエスご自身が一人で奇跡をおこされたのです。共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)では弟子たちが、分配するのに用いられていますが、ここヨハネによる福音書では、この記事の後、22節から主イエスが「命のパン」であることを強調しています。そこでは、ユダヤ人の先祖が荒れ野でマンナを食べたこと、それはモーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは天から降って来て世に命を与えるものである。」と語られています。即ち、ここでは人々にパンを与えることによって、ご自身がいずれ十字架の死によって命を与えるまさに「命のパン」であることを表明されたのでしょう。しかし、人々はお腹がいっぱいになったことで満足し、食料としてのパンのみを求めることになります。そこで主イエスの言葉は人々には受け入れられないものとなっていくのでした。

 ここで、この5つのパンと2匹の魚を差し出したのは、少年でした。ここで言われている5000人という数に入っていない子どもです。主イエスはこのような数にも数えられない子どもがささげたことをあえて強調しています。このことは私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。そこで、一つの解釈としてこのようなことが考えられないでしょうか?

 実は、この群衆の中の多くの人、勿論、大人がそれぞれにある程度の食料、お弁当の様なものを袋や衣服の中に持っていた、いや、隠していたのです。ところが年もいかない子どもが自分のものを全部差し出したために、大人たちが差し出さなかったことを恥じて、持っている人が自分のものを出して、分ち合っていくうちにみなが満腹し、さらに、パン屑が12の籠いっぱいになったというわけです。

 21年前の阪神淡路大地震、5年前の東日本大地震、最近は、関東で鬼ぬ川が氾濫した後、一人の少年が自宅の下の土が、ぼかんとなくなっているところへ一生懸命石を運んでいるすがたが映されていましたが、その姿を見て周囲の大人たちの涙を誘い,大いに励まされたとのことでした。わたしももう30数年前に島根県の益田教会で大水害に遭い、殆どの物を失いました。ようやく復旧作業も一段落したころ、全国の教会からいただいた救援募金をどう分配するかということが話し合われ、さまざまな意見が語られました。中にはいずれ会堂を再建しなければならないので、多くをそのために残しておきましょうという意見が多くありました。しかし、当時の西中国教区の教区議長であられた山田 守牧師がおっしゃいました。「これは救援募金なんだから、被災した牧師一家、教会員や関係者すべてに全部分配したらいいんや、会堂建築のためならまたこの後、続いて会堂建築募金をしたらええやんか、お金は使うもんや、使ったらまた与えられる」と。その言葉を聞いた時は、一つの教会が救援募金に続いて再建教会も、なんと太っ腹で大胆な、と驚きましたが、実際その通りになりました。あの当時、最低献金額500円というのもありました。確かに小さな献金です。でもそれらが献げられ集められたことによって、教会が建てられ、今も地の塩、世の光としての大きな役割を担っている教会の姿を見るとき、まさにこれが「5つのパンと2匹の魚」の奇跡物語だと思わされます。

 人数にも数えられていない少年、彼がさしだした僅かな、取るに足りないパンと魚を、

豊かに用いられた主イエスのなさった奇跡物語、それはまさに「小さいものに、大きな価値を見出す奇跡」です。これが主イエスによって私たちに与えられた天の糧です。私たち自身も主に献げ、持てるものを互いに分かち合い、主に用いていただきましょう。

礼拝メッセージ 『種を蒔く人』 

聖書  マルコによる福音書4章1~9節    

森田香代

 主イエスが語られた「種を蒔く人」の譬は私たちにとって馴染みある譬話です。ここでの種は「御言葉」即ち神様の言葉です。この譬には、種が落ちた土地の「説明」が書き加えられています。(13~20節) それは、 4つの異なった地に分けられ、道端、石地、茨の中に落ちた種は艱難や思い煩いや誘惑によって実らないが、良い地に落ちた種は豊かな実を結ぶ」という説明です。ここからは次のように話すこともできます。『この4つの土地は、私たちの信仰の成長過程を示すもので、全てに時があり、私たちの心が、ある時は道端や石地や茨の土地となる。しかし、御言葉を聞き続けることによって、道端も石地も茨の地もやがては、良い地に変えられて何倍にも成長して豊かな実を結ぶことができる。だから、しっかりと御言葉に聴き従いましょう』と。種が蒔かれた土地に焦点をあてると確かにそうです。しかし、単純に「種を蒔く人」に焦点をあてれば次のように言えます。「種を蒔く人」それは神様の姿です。種を蒔いた場所がどこであろうと、そんなことなどおかまいなしに、蒔き続けておられる。確かに蒔き方は粗雑で無駄も多い。しかし、これが神様のなさり方、独り子を十字架に架けてまで、その無駄を惜しまず与え続けてくださる神様の愛の寛大さ、気前よさです。たとえ、種が落ちた所が道端や石地や茨の地であろうと、分け隔てなくその良し悪しを簡単に決めつけず、必ず良い地となって豊作をもたらすであろうという大いなる希望をもって忍耐しながら蒔き続けておられるのです。

数年前、愛知県の知多半島にあるハーブ農園に行って大変驚いたことがあります。それは雑草の中でハーブを栽培することによってより良いハーブが実るということでした。

 19世紀のフランスの画家ミレーは、この譬話から「種まく人」という作品を残しました。ご存じの方も多いと思いますが、ミレーは、画面の中央いっぱいに農夫を描いています。その農夫の姿格好は、脇に抱えたザルの中から手のひらいっぱいに種を取り出して、バサッ、バサッと無造作に種を蒔き、雑草が生えていようが、おかまいなしに毎日毎日喜んで気前よく種をばらまいている。ミレーは、そのような神様をイメージして「種を蒔く人」を描いたのではないかと思わされています。

この譬話を聞いた弟子たちが、本当に主イエスに従う弟子になったのは、主の十字架を体験してからのことでした。自分たちも捕えられることを畏れて逃げ、部屋に鍵をかけた弟子たちが、復活の主イエスに出会って戻ってきた。その時、弟子たちは、主イエスが自分たちの心の中にある石や茨を取り除いてくださったからこそ、自分たちでさえ、豊かな実を結ぶ地に変えられたことを知ったのでした。

あの弟子たちに続き、私たちも、今、一人ひとりが「種を蒔く人」として召されています。その主の召しを信じ、日々新たにされつつ遣わされていく者でありたいと願います。

 

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